第38回国民文化祭いしかわ「川柳の祭典」台湾川柳会と私

特別寄稿 台湾からのメッセージ
台湾川柳会と私
杜   青 春

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温泉でスカウトされてカワヤナギ

 今から十四年前、二〇〇九年五月のある日、四七歳になったばかりだった。場所は台北近郊の北投温泉の瀧乃湯。湯船に浸かったあと、腰掛けで文庫本を読んでいた。七~八十代のお爺さんが、一人近寄ってきた。
 「あんた日本人?」と尋ねられた。
 「いいえ、日本語のわかる台湾人ですよ」と答えた。しばらく雑談した後、お爺さんが「川柳分かる?」
と聞いてきた。「ハイ!サラリーマン川柳、読んでいます」と言うと、「よかったら台湾川柳会に来なさい」と誘われた。
 その時、初めて台湾に川柳会があること知った。お爺さんは陳清波と名乗り、昭和七年生まれ、句会の場所と時間を伝えて別れた。
 川柳に興味があったので、翌六月第一日曜日、句会場所に行った。すると、戦前日本統治時代、日本語教育を受けた七~八十代のお爺さんとお婆さん、二十人ほどが集まっていた。しばらくして会長が入り、選句用紙を配り始めた。約一五〇句から好きな川柳十五句を選ぶ作業、当然初めての経験だった。やっと選句を終え、会長に渡し、作者名入りのプリントをもらった。
 会長は会員達からの選句を読み上げ、時折コメントを入れ、会員たちも談笑しながら蘊蓄を披露した。一通り終わった後、会長は笑みを浮かべながら、「また来てください」と名刺をくれた。賴柏絃、国際貿易会社の社長の名刺だった。昭和五年生まれ、父と同い年、……。
 当時私はまだ銀行員だった。それでも川柳会のお爺さんお婆さんのお喋りを聞いて楽しい、何か
勉強になると思い、入会を決めた。名刺をみたら、賴会長の会社は銀行の近くで徒歩十分。私は賴会長に電話し、「宜しければ会務のお手伝いします」と伝えた。程よく快諾されて、会社を訪れた。プリントの作成、日本と台湾の会員たちとの連絡の仕方、メール、ファックス、はがき、さらに電話、ことの重大さを思い知った。こうして、賴会長の指導の元、会務を担当するようになった。
 翌二〇一〇年七月、賴会長は体調不良で会長職を退きたいと要望したが、手を挙げた会員はいなかった。「投票しよう」と私が提案し、皆さんも同意した。ただ開票したら、会員達がこぞって私に投票した。ベテラン会員・廖運藩先生(当時八一歳)の「覚悟しろ!杜青春!」の一喝が、脳天に突き刺さった。こうして柳歴一年生の私が、台湾川柳会の代表になったのだった。

日台の輪広めてくれたカワヤナギ

 あれから十四年たった。少しずつ台湾川柳会の生い立ちも分かるようになった。
 一九九四年春のある日、全日本川柳協会初代会長仲川たけし先生が、公益財団法人日本台湾協会東京本部に以下を問い合わせた。
 一、台湾に川柳の会はあるのか。
 二、 ない場合にはそれの結成を促すことはできないか。
 三、台湾の川柳会との交流をいたしたい。
 この問い合わせは東京本部から台北事務所に伝わり、台北俳句会の黄霊芝会長に繋がった。
 当時台湾には左記の日本語短詩文芸会が存在していた。※( )内は、設立年。
 短歌会:①台湾歌壇(一九六八)
     ②コスモス短歌台北支部(一九七八)
 俳句会:①台北俳句会(一九七〇)
     ②春燈台北句会(一九八〇)


 川柳会がなかなか成立しなかった背景には、台湾で戦後から一九八七年、約四十年間戒厳令が敷かれていたという背景があった。短歌会も俳句会も戒厳令解除まで、日本語を使用する怪しいグループとして常に政府の監視下にあった。そんな中、政治や社会を風刺する川柳を公の場で創作することは、命を危険にさらす行為にも等しかった。戒厳令が撤廃され、初めての総統直接選挙も行われ、李登輝総統が当選した。李総統が一九八八年~二〇〇〇年にかけて、一連の民主化政策を推進され、台湾の言論の自由が保障される時代になった。
 以上の背景から、黄霊芝会長もこの際、台湾川柳会を結成してもよいと考え、川柳に興味を持つ俳句仲間を呼びかけ、一九九四年七月、台湾川柳会が発足した。初代会長に戦前日本統治時代から川柳を嗜んできた賴天河先生が選ばれ、初代事務局長に東呉大学の三村昌弘先生が担当することになった。
 台湾川柳会の発足を知り、全日本川柳協会の仲川たけし会長が同年十一月、早速お祝いに駆けつけた。さらに仲川会長の紹介で、当時東葛川柳会代表、後の全日本川柳協会第三代会長の今川乱魚先生も一九九五年三月来訪され、賴天河会長、後の二代目会長李琢玉先生、廖運藩先生、三村昌弘先生などの方々と親睦を深めた。
 以降、ほぼ毎年、佐知川川柳会(埼玉)、陶八雲川柳会(山口)、たましま川柳会(岡山)、川柳銀の笛吟社(秋田)、東葛川柳会(千葉)など日本各地の川柳会の方々が訪れた。
 一方、当会二代目会長李琢玉先生も二〇〇二年十一月、日本在住の会員を訪ねた。三代目会長賴柏絃先生も二〇〇七年十月、東葛川柳会二十周年記念大会、二〇〇八年六月、全日本川柳福岡大会、二〇一〇年九月、今川乱魚さんを偲ぶ会などに参加された。
 二〇一四年三月、台湾川柳会二〇周年の際、全日本川柳協会四代目会長の大野風柳先生を初め、北海道から広島までの四〇名の柳友が駆けつけ、台湾側も会員ゲスト三〇名、計七〇名の参加で大賑わいになった。併せて二〇周年記念『近くて近い台湾と日本~日台交流川柳句集』(江畑哲男・台湾川柳会編、新葉館出版)が出版された。
 そして二〇一九年三月、当会二五年周年記念句会でも、東葛川柳会江畑哲男代表が率いる十三名、川柳たましま社北川拓治代表が率いる十七名、大阪在住で台湾川柳会第一回から参加している生き証人、三村昌弘先生も夫婦で参加され、北海道から佐賀県まで計十五都道府県、合わせて四四名も来会された。台湾側もゲスト、会員合わせて二二名、計六六名の盛況とった。
 かくして私自身、二〇一七年六月全日本川柳札幌大会で、「焼かれても背骨まっすぐ大衆魚」が梅崎流青選で台湾人初の大会賞を受賞した。二〇一九年六月、全日本川柳浜松大会で全日本川柳協会から、国際貢献が認められて特別表彰を受けた。

武漢風邪みんなに会えぬ誌上會

 二〇二〇年に入り、武漢肺炎のパンデミックで世界は一転した。台湾と日本、自由に行き来できる状態も途絶えてしまった。当会もリアル句会を誌上句会に否応なく変更された。誌上句会になって一番辛いことは、月一度爺ちゃん婆ちゃんと談笑して、いろんな蘊蓄を聞く、そんな楽しみも出来なくなったことだった。
 二〇二二年に入り、還暦になった私は帯状疱疹などで体調を崩した。また、昭和五年生まれの父と、台湾川柳会の重鎮、昭和二年生まれの李錦上先生が続けて他界。世間では両岸関係の緊張化、ロシアのウクライナ侵略など、良い事何一つもないと思った。
 そんな最中、武漢風邪の鎮静化で約二年ぶり、十月からリアル句会を開催することができた。日本当局も着地ビザを開放し、私も三年ぶりに訪日することができた。東葛川柳会三五周年記念句会、岡山鉄道川柳大会に参加し、国民文化祭の沖縄川柳大会では選者まで務めさせて頂いた。各地で川柳仲間と再会できてやっと心が晴れた。
 ただ、非常に残念なことは、リアル句会が再開できても、今まで当会を支えてくれた戦中派の先生方々も九〇代後半になり、体調を崩して出席できなくなったことである。一方、若手の在台日本人の台湾人が増えてきて、明るい兆しもある。

日台の師友をくれたカワヤナギ

 思えば十四年前温泉でスカウトされて台湾川柳会に入った。そのお陰で、私自身に以下の変化が現れた。
一、世代を超えた師友ができたこと。
  毎回川柳会を通して、戦前日本語教育を受けた師友方々からひと昔の生の歴史を知るようになり、大変貴重な財産である。また会員たちが積極的にお友達を紹介してくれたおかげで、当会の会員は最年長大正十五年の九七歳、最年少は二十歳と、世代を超えた友達ができた。
二、日本全国の柳豪と知り合えた。
  これは歴代会長の大切な贈り物。まだ電話とファックスしかない時代に、当会を日本全国の柳豪に広めてくれた。その恩恵で今ではロサンジェルス、北は札幌から南は熊本、毎月投句してくれている柳豪陣が並んでいる。日本各地の川柳会を訪問し、句会進行の仕方を勉強するほか、ついでに?!当地の温泉に浸かることも楽しみになった。
三、生活が豊かになったこと。
  銀行の仕事のみだった生活が、川柳会に入ってから、句作りの題材探しに、花鳥風月、旬な食べ物、果物を少し知るようになった。周りの物事も観察するようになった。なによりも五七五に仕上げる過程で、文章が簡潔で読み易くなったと言われるようになった。
 川柳との出会いができ、つくづく私は本当に果報者と思う昨今である。

台湾や北京ダックの雛祭

 来年七月を控え、台湾川柳会もいよいよ三〇周年を迎える。そこで、二〇二四年三月三日の雛祭、三〇周年記念句会を開催し、親睦会でも北京ダックを用意する予定。皆様のご来会をお待ちしている次第である。また、まだまだ企画段階ではあるが、三〇周年記念行事の一環として、台湾の大学生による初の川柳大会も開催を予定している。
 そんな台湾川柳会、どうか皆様、今後ともご支援、ご協力のほどお願い致す所存である。
(と・せいしゅん 台北市、全日本川柳協会加盟の台湾川柳会代表)

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